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1932 ロールス・ロイス ファントムII ヘンリーロードスター

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1932 ROLLS-ROYCE PHANTOM II HENLY ROADSTER

乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ

第一次世界大戦が終了ししばらく経った1919年の夏、ロールス・ロイス社においてジェネラルマネージャーを務めていたクロード・ジョンソンはアメリカ出張から帰国した。この旅行の目的はアメリカ市場におけるロールス・ロイス車の安定供給のため、アメリカに工場を設けるための事前調査というもの。ロールス・ロイス自体は早い時期から市場からの要求に応えてアメリカへと輸出され、シャシーで輸出された一部はアメリカのコーチビルダーによりボディを架装されている例もあったが、当のアメリカは高級車に対する関税が厳しく、特に高価だったシルヴァー・ゴーストは販売価格という面でアメリカ車に対して極めて大きなハンデを背負わざるを得なかった。またこの時点でロールス・ロイスのメインファクトリーだったダービー工場のキャパシティは完全にパンクしており、輸出分も含めて1年半分以上のバックオーダーを抱えていたことも海外生産を決心する理由の一つだった。


こうした種々の問題をクリアするには、それまで対米輸出に振り向けられていた個体の生産をアメリカ国内で行う以外に解決策は見当たらず、出張から帰国てから間もなくの1919年9月22日に至り、クロード・ジョンソンはアメリカ国内の資本家に対して、ロールス・ロイスの対米進出計画を公表し資本家を募ることとなった。そしてここで共同経営者に名乗りを上げた人物は3名いた。L.J.ベルナップ、ヘンリー J.フラー、そしてJ.E.アルドレッドである。いずれも高名な銀行家であり、ベルナップはウェスタン・エレクトリックの発電所建設へ、アルドレッドはカミソリメーカーのジレット社への投資で銀行家としての名声を獲得した人物だった。


さて、程なくして合意を見たロールス・ロイスUSA計画は、次なる段階としてメインファクトリーを設けるための候補値の選択に入った。ここでまず候補値となったのがニューヨーク郊外のスプリングフィールドである。スプリングフィールドにはメリットが3つあった。第一に周辺は陸軍工廠を初め重工業が集中している地帯であり、熟練労働者や下請け企業といったサポート体制にも不安がなかったこと。第二にニューヨークとボストンという巨大マーケットが近かったこと。そして第三に同地域は全米でも珍しく労使関係が良好だった地域であり、労働争議の心配がほとんどなかったこと。しかも都合が良いことに、アメリカン・ワイヤーホイール・カンパニーの旧工場が売りに出ていた。ロールス・ロイスUSAはこの地に本社を設け、同時に操業準備を進めることとなった。初代社長は前出のベルナップである。


1920年、ロールス・ロイスUSAは自社の公約というべき企業ポリシーを発表した。以下はそれらの抜粋である。アメリカでのロールス・ロイス車は基本的に限定生産とする。スプリングフィールド製シャシーはダービー製シャシーと同一であり、全てのパーツは兌換性を持つものとする。ボディは自社では製作しない。使用する素材のクオリティは本国製と同一とする。また仕上げやテストは全てダービー工場に準じたものとする。これらのことからもわかる通り、ロールス・ロイス車はたとえ製造国が違っても変わらないクオリティを約束していた。メイド・インUSAロールス・ロイスは初期に20hpを部品の状態で輸入し、いわゆるノックダウンで製造した後にはシルヴァーゴーストを1920年から1926年まで、後継モデルのニューファントムことファントムIを1927年から1931年まで製造した。台数はシルヴァーゴーストが1703台、ニュー・ファントムが1241台である。


アメリカ製のロールス・ロイスは、アメリカのコーチビルダーによってボディを架装されていた。ちなみにその価格はシャシーだけで1万ドルとT型フォード40台分に相当していたシルヴァーゴーストは紛れもなく超高級車に相当していたが、クルマの販売方法がアメリカと英国で多少異なっていたことから、ボディ製作にも微妙な違いが現れていた。つまりイギリスの場合、完全オーダーだったのに対して、アメリカは完成車を販売することが普通だったのである。ただしイギリス流にスペシャルボディをリクエストする例もあったことから、ロールス・ロイスUSAはスタンダードボディとスペシャルボディ、それぞれの架装体制を整えざるを得なかった。ここで初期に多数のボディ架装を請け負っていた部門が「ロールス・ロイス・カスタムコーチワーク」である。


もちろんここではロールス・ロイス自身でボディを架装していたわけではなく、スミス・スプリングフィールド、ニュー・ヘヴン、メリマック、ビドル&スマート、ウイロビーといった著名なコーチビルダーに適宜オーダーし架装してもらっていた窓口というべきものだった。複数のコーチビルダーがラインナップされていたのは、それぞれが小規模だったことと、スペシャル・オーダーボディもこれらのコーチビルダーに適宜発注されていたためである。一方、1925年からはコーチワークの一本化を目的に、ロールス・ロイスUSAはニューヨークのコーチビルダー、ブリュースター社の株式を買収、最終的に最も多数のボディを架装することとなった。一般にアメリカ製ボディはヨーロッパのコーチビルダーの手に拠るものと比較して、デリカシーに欠けるといわれているが、少なくともフィッティングという意味では遜色はなかった。


既述の通り1927年にロールス・ロイスUSAのラインナップはファントムのみとなった。このモデルが1931年まで生産された後、ロールス・ロイスUSAはアメリカでのシャシー生産を終了することとなった。理由は大恐慌の影響によって販売そのものが大きく落ち込んだことと、アメリカで生産していながら、イギリス製を求めるユーザーが少なくなかったことである。


一方、シャシーの生産が終了した後も、アメリカ市場向けのロールス・ロイスは、当初がそうであった様にシャシーのみを輸入しアメリカでボディを架装するというスタイルが採られた。1931年から1935年までリリースされたファントムIIはブリュースターによって、同じく1936年から1940年までのファントムIIIのボディは、新たにロールス・ロイスUSAのパートナーとなったコーチビルダーのインスキップによってボディが架装されていた。この両車のシャシーはイギリス製であり、ごく一部の例外を除いて右ハンドルだったのが特徴である。


ちなみに今回紹介している1932年型ファントムIIヘンリーロードスターはイギリス本国製のシャシーにブリュースター製のロードスターボディを架装した非常に軽快かつスポーティーなスタイルが特徴の一台なのだが、ごらんの通りハンドルの位置は左である。実はこのボディも販売当時のオリジナルではなく、当初はタウンカー(セダンカ・ド・ヴィルとも呼ばれていた前席オープン後席クローズドのリムジンボディ)ボディが架装されていたものを1938年に至りロードスターに載せ替えたものとされている。もしかしたら、この時点でロールス・ロイスのファクトリーにおいてステアリングの位置を変更したのかもしれない。


なおアメリカ製のシャシー、もしくはアメリカ製のボディを架装したロールス・ロイスは英国製に比べるとワンランク劣るといわれることも多かったのだが、しかしそれは根も葉もない単なる噂に過ぎない。なぜなら、ロイスがそんなことを許すはずがなかったからである。ボディのデザインが気に入らないからといって総てを否定するのは、ロイスの志しを理解し得ない俗物だけだった。それはごらんのヘンリーロードスターを見ても明らかである。


余談ながら1935年を最後にロールス・ロイスと離れたブリュースターは、コーチビルダーと平行して1932年に航空機会社を起こす。ただし下請けで製作していた部品以外の分野での業績は芳しくなく、1930年代後半から1940年代初めにかけて自社開発した艦上偵察爆撃機の「SBA-1」、同じく艦上戦闘機「F2A-1バッファロー」、そして最後となった艦上急降下爆撃機の「SB2A-1バッカニア」のいずれも少量生産に終り、最終的に2流という評価の域を出ることはなかった。なお唯一、フィンランド空軍に輸出されたバッファローのみは高い評価を受けているが、それはまた別の物語である。








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